人生の曲がり角

障がい者こそ、健常者を差別しないでほしい

こんにちは。

 

2019年の目標は、「違和感のあることをぶった斬る」にでもしましょうか。どんどん言いたいことを言って、貧乏でも心は豊かな人間になりましょう。

 

さて、いつだか忘れましたが、JR池袋駅の西口に向かう途中で、「障がい者を差別するな」という旗が立っているのを見ました。

 

勘違い乙って感じです。

 

私の父は片目を失明しており、いとこは耳が聞こえません。叔父は生まれつき、下半身不随です。

 

その上で言いますね。

 

差別するなって、あんたらが健常者を差別してるんだよ。

 

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健常者に健康な人間など、一人もいない

 

そもそも健常者って言葉に腹が立つんですけど、健常者に健康な人間なんていないんですよ。私は健常者ですが、常に体調不良です。肩と腰は痛いし、胃腸の調子も悪いし、時々頭も痛くなって、今日は完璧だ!と言える日なんて一日たりともありません。

 

「私たちの辛さが分かるのか!」みたいな言い方するじゃないですか。

 

じゃあ聞くけど、体調不良でもろくに休むこともできない、健常者の気持ちがお前らに分かんのかよ。

 

自分のことを棚に上げて他人を叩くとは、受診する病院をお間違えではないですか?

 

してもらって当たり前と思ってる奴に、してあげる必要などない

 

なにを履き違えているのか知りませんが、障がい者の中には「助けてもらって当然」という姿勢の方がいらっしゃいます。完全に頭に虫が沸いてしまっていますね。

 

いつから、障がい者は偉くなったんでしょうか?その意識は健常者を見下していることになりますが、自覚はお持ちなのでしょうか?

 

謙虚で感謝の気持ちがある人には、なにも言われなくても手を差し伸べます。その人の態度を見ていれば、助けるべき人間かそうでないかは一目瞭然です。そこに障がいの有無は関係ありませんし、「人となり」の問題なんですよ。

 

フェミニストも反基地もそうですけど、どうして自分という人間をおざなりにして、理由を盾に都合の良いことを押し付けてくるんですか?言いたいことを言うのは構いませんが、自分を省みるということを知らないのでしょうか?

 

親の顔が見てみたいですけど、蛙の子は蛙なんでしょうね。

 

ありがとうとごめんなさいも言えず、してもらって当たり前だと思っている。

 

そんな奴、友達にもなりたくないですし、話をする気にもなりません。障がいがあろうがなかろうが、人として腐ってる奴と付き合うのは「人生の無駄」です。

 

生きづらい世の中なのは、なにも障がい者だけじゃない

 

生きづらいですよねー、私もそう思います。

 

言いたいことを言えば叩かれて、メディアの人間には仕事に影響が出ると脅されて、毎朝、中央線は遅延し、夜な夜なシェアハウスでバカが騒いで、生きづらいったらありゃしないです。

 

でも私だけじゃないし、あなただけじゃない。生きやすくするために日々やるべきことをやって、結果で事を変えようと努力しているのです。

 

その努力もなしに、障がいという盾を使って、楽しようとしてるだけじゃないですか。誰しもが生きづらい世の中なのに、どうしてあなただけを甘やかさなければいけないんですか?だったら健常者のことも同じように、甘やかしてくださいよ。

 

目が見えないとか、耳が聞こえないとか

 

足がないとか、手がないとか

 

知能に障がいがあるとか、発達に障がいがあるとか

 

どうでもいいです。ほんっと、どうでもいい。

 

人間なら全員、例外なく、与えられたもので生きていくしかないんですよ。そこに健常者も障がい者も関係ないし、与えられるものは人によって異なるじゃないですか。

 

天才と呼ばれるような能力のない人が大多数でも、その人にしかできないことは必ずあります。日々自分にしかできないことを活かして、誰かやなにかのために生き続けるしかないんですよ。

 

その与えられたものの幅を広げるのは、誰かや何かではないし、権利でも権力でもありません。

 

努力です。

 

結果です。

 

それに伴う過程と、姿勢です。

 

それが分からないうちは、助けてもらえることなんてないでしょうね。

 

目が見えなくなった父は勘当され、SEになり、suicaを作った

 

私の父親の実家は、病院を経営しています。私も幼い頃はボンボン育ちを経験させてもらいましたが、父は医師ではなくシステムエンジニアとして働いていました。

 

医学部生だった10代の頃、父は片目を失明し医師になるのを諦めました。そんな父を、祖父は「使えない」と勘当し、地元から追い出したそうです。

 

父は逃げるように東京へ来て、バイトをしながら専門学校に通いました。そしてシステムエンジニアとして働き始め、母に出会い結婚しました。

 

幼い頃の父の記憶は、いつもパソコンの前に座っている姿です。休みの日も自室にこもり、パソコンの前で頭を抱えて呻いている姿を覚えています。

 

そんな父の口癖は、

 

「これからは現金を持たずに、電車に乗って買い物ができる時代になる」

 

でした。

 

クレジットカードとは違いサインをする必要もなければ誰でも持てるんだと、熱心に母に話している姿を覚えています。

 

そして、suicaができました。

 

父はシステムを開発した人間ですが、障がい者です。片目は見えていませんし、健常者とは違います。

 

ですが、父は、目が見えないことを理由に言い訳をしたことは一度もありません。

 

運動会では他のお父さんと同じように走り、勉強を教え、旅行に連れていき、出張へ行けばお土産を買ってきてくれました。健常者の父親となにも変わらない障がい者の父親を、私は尊敬していますし、誇らしく思います。

 

でもこれが、目が見えないことを理由に言い訳するような父であれば、大嫌いになっていたでしょうね。目が見えなくて当然だと思っていたでしょうし、ずっと早く家を出ていたかもしれません。

 

医師としての能力には欠けていたかもしれませんが、父は自分にしかできないことで結果を出しました。甘えることもなく、言い訳することもなく、粛々とやるべきことをやった結果です。

 

誰かや何かのせいにするのは、とても楽で簡単です。言い訳ができれば多少は聞く耳を持ってくれる人もいるでしょうし、同情して可哀想と言ってくれる人もいるかもしれません。

 

でも私の父もいとこも叔父も、可哀想と言われることを嫌います。

 

与えられたもので生きているのであって、与えられたものは人それぞれ違うのに、可哀想と言われる意味が分からないと。

 

だから私は障がい者を可哀想とは思わないし、障がいのある友人にも健常者の友人にも同じように接します。そこに差別意識はありませんし、あるとすれば区別意識です。

 

差別と区別の違いがわからない奴に、差別を語られたくない

 

差別だ差別だと騒ぐ人は、大概、差別と区別の違いが分かっていません。無知は罪だといいますが、その通りですよ。それでいて人のせいにするなんて、バカを露呈しているのと同じです。

 

とりあえずのWikipediaさんに、差別と区別の違いを教えてもらいましょう。

 

まず、皆さんの大好きな差別については、このように書かれています。

 

差別(さべつ)とは、存在の否定である。特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為である。それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。

差別 - Wikipedia

 

存在の否定とは…恐ろしいものですね。健常者は障がい者の存在を否定しているということになりますが、当てはまらないと思うのは私だけでしょうか。

 

次に、区別について見てみましょう。

 

ウィキペディアには「区別」という見出しの百科事典記事はありません。

区別 - Wikipedia

 

わお、これは困りましたね。Wikipediaさんでも、区別というのは分からないそうです。グーグル先生に聞いてみた結果が、以下です。

 

それとこれとの間に認める違い。また、それをこれと違うもの(種類)として扱うこと。

区別 意味 - Google 検索

 

だそうです。理解できるでしょうか。

 

健常者と障がい者の間に認める違い

 

これこそが、健常者も障がい者も生きやすくなるための社会です。

 

誰もあなたたちの存在を、否定していません。同じ人間だからです。見た目や能力の差があるのは、障がい云々の話ではないと誰もが分かっているからです。

 

区別は必要です。能力差がある以上、全員が同じでない以上、それぞれに合わせて区別することが、その人のためになるからです。

 

それを差別だと騒ぐのは、被害者意識もほどほどにしたらどうでしょうか。

 

健常者は罪に問われ、障がい者は許されることがあるのを忘れるな

 

これも性犯罪に好まれる人生の運命ともいえますが、バスに乗っていたとき、ダウン症の方が私の目の前に立ち、突然オナニーを始めました。ハァハァ言いながら必死にしごく姿に、恐怖を感じました。

 

別の日に駅で待ち合わせをしていたとき、突然抱きつかれ、思い切り腰を振られ、付き添いの方に平謝りされました。

 

彼らは、相手がどう思うかを考えられません。それは病のせいであって、本人がそうしたくてしているわけではないことも、充分に理解しています。

 

これが健常者だった場合、罪に問われ、裁判を受けることになります。ですが、障がい者だから許されるのです。

 

逆に、障がいのある方を人として扱わない健常者もいます。そんな健常者こそ障がい者であり、存在を否定したい生き物です。

 

障がい者施設で障がい者の方を大量殺人し、障がい者は生きている価値がないと言った殺人犯がいましたよね。確かに社会にとって有益な存在かといわれたら、そうではないかもしれません。

 

ですが、私は目の前でオナニーしているダウン症の方を見て、思わず、彼のお母さんはどう思うんだろうかと考えてしまいました。

 

私はあまりいい娘ではありませんし、母のことを幾度となく泣かせてきました。それでも母は私を愛し、大切に思ってくれています。親であればどんな子であっても、大切な自分の子どもには変わりないのではないでしょうか。

 

そこに社会への有益性は関係ないですし、生きていてほしいと願う人がいる以上、彼らにも生きる権利があります。

 

でも、彼らによって傷付けられる人間がいることも、忘れないでください。

 

そんなことも忘れて自分たちだけが可哀想だと騒ぐのは、あまりにも思いやりがないと感じます。では彼らによって傷付けられた人たちに、なんと説明するのでしょうか?

 

人を傷付けるのに、障がいがあるからでは済まされないんですよ。司法は心神喪失者を罪には問わないといっていますが、その事実を犯した時点で、障がい云々ではなく、 その事実をしようと思う「心神」は持っているわけですよね。

 

私は彼が心神を喪失した状態でオナニーしたとは思えませんし、腰を振ったとも思えません。それは言い訳であって、配慮するべきとは思えないからです。

 

事実に対して謝罪を求めることはあっても、彼らの存在を否定する気はありません。気分を害す人がいるから、してはいけないよと、言うだけです。

 

なぜか、分かりますか。

 

彼らに人の気持ちが分からなくても、私には分かるからです。

 

これが健常者と障がい者の間に認める違いであり、必要な区別です。差別をするならオナニーを始めた時点で、生きてる価値ないよと殺していたでしょうね。

 

誰もが生きやすい社会を求めるなら、まずはてめえの色眼鏡を外せ

 

 こちらの記事を、ご覧ください。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

この女性を犯した人間を、本来は障がい者と呼ぶべきです。

 

犯人はきっと、障がいのある方や病を抱えた方を色眼鏡で見ているんでしょうね。大量殺人した犯人も同じですが、差別と区別の違いが分からない、痛い子の典型的なタイプです。

 

障がい者にも尊厳があり、生きる権利があります。

 

健常者にも尊厳があり、生きる権利があります。

 

お前らだけじゃないし、私たちだけでもない。障がい云々関係なく、この世に生きる全ての人に当てはまることです。お互いに色眼鏡を外して人として付き合うことを覚えなければ、いつまで経ってもくだらない人間に傷付けられるだけです。

 

人に求める前に、まずは自分を省みましょうね。それから人に期待するより、自分に期待した方が、ずっと夢があって人生が豊かになりますよ。